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担当学芸員による坊っちゃん展見どころご案内 (上・下) 下 2018年8月29日 (水) お知らせ,企画展

本展も残すところあと4日となってしまいました。ようやく昨日から坊っちゃん新聞もミュージアムショップ店頭に並んでいます。またオリジナルポストカードの祖父江慎版マイクロ文字坊っちゃん絵葉書も本日届きました!

本展後半の展示をご紹介いたします。

 

資料編

ここからはいよいよお宝資料編。

 

改めて『坊っちゃん』の物語をたどり、作中に登場するものから実際に漱石が訪れた場所などの関連資料をそれぞれゆかりの施設等からお借りしました。

「マッチ箱のような」伊予鉄道関連では、愛媛県の行政資料として県立図書館に収蔵されている「鉄軌索道」より図面や料金表などを、また漱石も泊まった城戸屋旅館の資料は、明治19年発行の『商工技芸愛媛魁』(坂の上の雲ミュージアム蔵)より。漱石が英語を教えた愛媛県尋常中学校の資料は、その後身の県立松山東高校から、漱石も写った生徒や同僚たちとの集合写真と松山を去る直前に校長宛に書かれた直筆の「欠勤願い」をお借りしています。坊っちゃんが食べて生徒に黒板に落書きされた「団子」関連では、明治創業のつぼや菓子舗の昭和初期の包装紙や水月焼きの湯呑などを、同店やまた、漱石コレクターの鎌倉幸光氏の旧蔵品(現岩波書店蔵)から。そして漱石も愛してやまなかった道後温泉の資料としては、明治・大正期の入浴券や今の3階建てに改装した明治27年当初の入場料広告の原本やぎやまんなど貴重な資料を松山市道後温泉事務所よりお借りしました。また、大の甘党だった漱石も坊っちゃんと同様お風呂とセットでお茶とお茶菓子を愉しんだとのことで、茶碗と菓子皿も合わせてお借りして展示しています。

このような調子で海南新聞や愛媛県尋常師範学校、桝屋旅館、東京市街鉄道と続きます。

 

漱石コレクター・鎌倉幸光(かまくら・ゆきみつ)

つぼや菓子舗関連資料の中でも名前を紹介しましたが、昭和初期に活動し、昭和10年の決定版漱石全集編集にも資料提供などで大きく貢献した鎌倉幸光氏は、漱石に関わる数多くの資料を収集しており、それらが現在岩波書店にまとめて収蔵されています。個人収集家としての視点やその多岐にわたる収蔵物は大変興味深く、鎌倉さんに共鳴した祖父江さんたっての希望で今回多数お借りしています。大きなポスターから小さなマッチ箱、後でご紹介する猫の置物まで祖父江さん同行による入念な調査を経ての資料選定となりました。

 

「舞台・テレビ・映画の坊っちゃん」、「漫画の坊っちゃん」、「海外の坊っちゃん」

これらは前述の鎌倉さんの旧蔵品と祖父江さん所蔵によるものでほとんどを占めています。『坊っちゃん』を原作にした作品が数多く制作されていること、また世界各国でも翻訳されて出版されていることなどから、この作品がいかに多くの人々に親しまれているかがよく分かります。愛媛大学の佐藤栄作先生によると、韓国のソウル大学の推薦図書としても『坊っちゃん』は挙げられていて、韓国では各社がこぞって坊っちゃん本を出版しているそうです。

 

桜井忠温(さくらい・ただよし)と「坊っちゃん」

桜井忠温は漱石の愛媛県尋常中学校時代の教え子のひとりです。自身もその戦争体験を記した『肉弾』で一躍脚光を浴びました。昭和37年の愛媛新聞に連載された『坊っちゃん』の挿絵を担当し、県立松山東高校が所蔵しているその60回分の原画を全てご紹介しています。子規記念博物館が所蔵するその習作と比較してご覧ください。また、桜井忠温は松山坊っちゃん会の初代名誉会長でもあります。現在も活動を続ける同会の会報も合わせて展示しています。

 

伊予・道後観光案内

鎌倉幸光旧蔵資料と合わせ、県内の個人収集家が集めた資料を中心に、観光案内や絵葉書をご紹介。明治時代から既に道後温泉が一大観光名所であったことが窺えます。

 

漱石全集

こちらは祖父江さん所蔵資料が中心。鎌倉さん旧蔵のポスター3枚以外は全て祖父江蔵です。今回資料点数が多く、いよいよ展示ケースがなくなったので、旧館時代から使用してきた年代物の展示ケースを南館から運んできました。これがあまり違和感なく収まっています。

全集の「予約見本」つまり販促のためのパンフレットがほとんどですので当時は無料配布されたもの。現在岩波書店から発行中の全集のものも展示されていますが、本展ミュージアムショップの店頭でも無料配布されています。

 

坊っちゃんの背景

固定ガラスケース内には、漱石と子規との出会いや交流といった、『坊っちゃん』が誕生する原点に立ち返っての展示となります。明治28年、漱石が松山に滞在中に帰郷した子規と52日間同居するという重要な期間もあり、その後の俳句を通じてのやり取りでは、漱石が送った俳句に子規が赤字で添削をした書簡が二人の親密さをよく表しています。明治28年11月3日の書簡(神奈川近代文学館蔵)では特に赤字がたくさん入っていて、「陳腐」といった辛辣な批評が垣間見れますし、12月18日付の書簡(子規記念博物館蔵)では、「次はなくしてはいやであります」という下りも。子規が漱石の書簡を失くしてしまったということなのでしょう。

そして、壁沿いにずらりと並んだ『ほととぎす』(松山版)と東京に移った『ホトトギス』の復刻版。前期では、「ほととぎす発行処を東京へ遷す事」という『ほととぎす』20号にも掲載された子規の文章の原稿を展示しました。子規記念博物館所蔵のこの書簡は、松山版『ほととぎす』の主宰者であった子規の同級生でもある柳原極堂と、後に子規の遺志を継いで東京に移った『ホトトギス』を編集する高浜虚子二人による回想を綴った文章が一緒に巻子に表装されています。

今回漱石の『坊っちゃん』に関わる貴重な書簡を3つご紹介していますが、そのうちのひとつ明治39年3月23日付の書簡(虚子記念文学館蔵)は、正に執筆中のもの。虚子に宛て執筆の途中経過を具体的に記している大変貴重な資料です。『坊っちゃん』は1,2週間という大変短い期間で執筆されていますが、150枚で仕上げることになる本文の109枚目。さらに虚子に伊予弁の校正まで依頼して、虚子も伊予弁に限らずかなり手を入れています。4月1日発行という日程の中、大変厳しいスケジュールだった様子が伝わります。

その1日に手元に届けられた『ホトトギス』第9巻第7号(通称「坊っちゃん号」)を確認して、漱石は虚子にまたすぐ手紙を書きます。「坊っちゃん」が付録としてついていますので従来号よりだいぶ厚みもありましたが、前号の15銭と比較して52銭での販売に驚いた漱石が皮肉たっぷりに書いていてとてもまた興味深いものです(こちらも虚子記念文学館蔵)。その後売れ残った「坊っちゃん号」は早々に40銭に値下げされ、たびたびその後の『ホトトギス』に「残部あり」と掲載されています。

4月12日付の書簡は愛媛の実業家で俳人の村上霽月(むらかみ・せいげつ)宛(村上半久郎蔵)。『坊っちゃん』の感想やモデルのことなどを書いて送ったと思われる霽月への返信で、登場人物は空想上であることや、漱石が下宿していた津田安のことは少々書いたことなどが書かれています。骨董を漱石も売りつけられたのでしょうか?ということで、前期には坊っちゃんが売りつけられそうになった端渓の硯(漱石旧蔵品、神奈川近代文学館蔵)を合わせてご紹介いたしました。

このコーナーの最後は漱石と子規による絵画で、伊予の絵師・吉田蔵沢の竹を巡る二人の交流を直筆の絵画や俳句で紹介しています。

 

吾輩ハ猫デアル

漱石が最初に発表した小説がこちら。今回「坊っちゃん展」ですが訳あって「猫」と「こゝろ」コーナーもございます。「猫」の一番の理由は最後に登場する三沢厚彦さんですので、後程ご紹介いたしますね。

実は、『ホトトギス』の坊っちゃん号にも猫の連載が掲載されており、この二つは漱石が同時に執筆していた作品でした。明治38年1月に最初は単発での掲載だったのですが、これが大変な人気を博し、翌年8月まで継続して連作され『ホトトギス』の売り上げにも大きく貢献しました。猫のモデルとなった夏目家の飼い猫が死亡した際に、「猫の死亡通知」と呼ばれる絵葉書を親しく交流していた門下生に宛てて書いており、名前は結局つけなかったのですが、有名になった猫に対する敬意や親しみ、そして独特のユーモアを感じさせます。今回愛媛県尋常中学校の教え子でもある松根東洋城宛の絵葉書(新宿区立漱石山房記念館蔵)をお借りしています。

そして、漱石の猫と言えば欠かせない代表作が《あかざと猫の図》(神奈川近代文学館蔵)。漱石が飼い猫の黒猫を描いた作品です。この図像は書籍のポスターなどあちこちで使用され、祖父江さん自身も独自の表装による複製を作成。岩波書店のポスターと本作と祖父江版との3点を猫の位置を揃えて展示したいというのが祖父江さんの意向です。そして、祖父江さん所蔵の猫本は、貴重な大倉版のものその復刻版、さらに祖父江版「無理本」。「無理本」は1点しかない試作版で、天金などの装幀があまりに高価で市販が不可能なことから祖父江さんにより名づけられました。

そして、鎌倉さんが全国各地から集めた可愛らしい猫の工芸品の数々。ほとんどが高さ10センチ以内に収まるくらいの小ささですが、竹や貝、胡桃や銀杏、紙などの様々な素材で細やかな職人技で作られた漱石の猫たちです。鎌倉さんは、花巻など遠方で行けない場合でも手紙のやり取りで入手していたようで、熱心な様子が窺えます。道後の猫もいますので見つけてみてくださいね。

こゝろ

祖父江慎さんが2014年に岩波書店から出版したのが『漱石 心』。漱石の原文の書き間違いなども活かしたこだわりの一冊です。今回は岩波書店からご協力いただき、初版の『こゝろ』や祖父江さんも装幀に使用した漱石直筆の扉絵などお借りしています。

漱石の教え子だった岩波茂雄が開いた岩波書店で、漱石が『こゝろ』を出版したいと提案しました。漱石が表紙も題字も自分で手掛けたこの本が岩波書店から出版された最初の本となったのです。以後、岩波書店から発行される全集などにも漱石のこのデザインが使用されています。

 

「漱石」千円札と切手

本展の異色の出品資料がこちら、本物の千円札です。漱石が千円札に採用された際に漱石ゆかりの土地に寄贈されたもので、松山市には3号券が贈られました。子規記念博物館所蔵の千円札もお借りしています。こちらは大蔵省印刷局で印刷されたものですが、祖父江さんが印刷所が異なるものを2種類集めているとか。ただ、大切に仕舞い込んでどこにあるか分からなくなってしまい・・・今回残念ながら並べて展示することはかないませんでした。代わりにというわけではありませんが、祖父江蔵漱石の5円切手シートを後期より並べて展示しています。

 

三沢厚彦のさび猫

最後の取りを務めるのが三沢厚彦による作品群です。三沢さんは「アニマルズ」と称した動物をモチーフにした作品群で知られています。「坊っちゃん展」なのに「猫」がいる理由は、実は『坊っちゃん』には残念ながら目立った動物が登場しないから・・・です。三沢さんにぜひとも「猫」を制作していただこう、ということで今回祖父江さんから『吾輩ハ猫デアル』の主人公の吾輩を制作してほしいという依頼を受け、祖父江さんから参考に渡されたのが「さび猫」の写真。吾輩の模様については特に作中では明記されていませんが、断片的に描写されている箇所を分析して祖父江さんはさび猫と判断したそうです。三沢さんの彫刻は楠を素材に制作する木彫です。今回制作してくださった吾輩は、凛とした表情で堂々と正面を向いて座っている、とても逞しい猫に仕上がっています。他にも平面によるさび猫や、坊っちゃん関連のターナー島、そして漱石の肖像など含め本展のために新作を多数制作してくださいました。立体の猫たちや漱石さんが乗っている台に掛ける布には、モノクロの『こゝろ』の表紙デザインが採用されています。

三沢さんは横須賀美術館で本展の同時期に個展を開催されていて、大変お忙しい中ご準備いただきました。

謝辞

本展は本当に数多くの皆様の御協力を経て実現したものです。ささやかながら感謝の意を会場にも掲示させていただいております。

この場をお借りして、皆様に改めまして感謝申し上げます。

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